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留学体験記  上野豪久

昨年末に米国での足かけ4年間の留学をおえて帰国いたしました。ダラスでは大人の肝、膵、腎移植に携わり肝移植や腎移植の執刀をそれぞれ50例以上経験することができました。また、マイアミでは10例以上の小児の小腸移植や多臓器移植の手術や術後管理、長期観察に携わる機会を得ました。10.jpg
さて、このたび、小児外科学会のホームページに留学記を掲載する機会をいただきました。今まで何回か海外にて研修をする機会がありましたが、私にとってもっとも忘れられないのは学生時代の海外研修でした。今回はそれを中心に記させていただきたいと思います。

私が、初めて小児外科に関心を持ったのは医学部の5年生の海外実習でありました。その当時、大学からの夏休みのハワイ大学への派遣研修に不採用となった私は、海外交流委員長だった小児外科教授(当時)の岡田正先生に、「どこかほかの研修先を紹介してほしい。」と頼み込みました。大学時代は発生生物学を学んでいたこともあり医学部卒業後は小児科を考えていたのですが、「君は小児科志望かね、それだったら小児外科でも似たようなものだろう。」とアイオワ大学小児外科教授(当時)の木村健先生を紹介していただき、夏休みの実習としてアイオワ大学へ向かうことになりました。
学士入学で医学部に入り直したこともあり、ほかの学生よりも年が上のことから、トレーニングに時間のかかり体力的にも大変な外科、ましてやその中でも専門分野の小児外科などに進むことはその当時全く考えたこともありませんでした。ある先生からは「君は歳だから小児外科に進むのはやめた方がいいよ。」と言われたこともありました。この実習がその後の人生を変えることになるとは夢にも思いませんでした。
さて、アイオワ大学に行くとは言ったものの、全くイメージがわきません。アイオワ州と言ったら「マジソン群の橋」や「フィールドオブドリームズ」などの映画の舞台にもなりましたが、いずれもアメリカを代表する田舎町として描かれています。また、英語力が無かった私には飛行機の乗り換えのアナウンスさえも聞き取れず目的の飛行機を探すのに苦労しました。ミネアポリスから、バスのような小さな飛行機に乗り、シダー・ラッピッドと言うトウモロコシ畑の中の小さな飛行場に降り立ちました。アメリカ人の中に混じって心細かった私に木村夫妻がわざわざ空港までキャデラックで迎えに来ていただきました。車で1時間ほどトウモロコシ畑のハイウエーを走ると、アイオワ大学の巨大なビル群が見えてきました。まず最初は町の入り口にあるレストランでステーキをごちそうになりました。
アイオワシティーはアイオワ大学の大学町で、アイオワ大学病院(University of Iowa Hospitals and Clinics)は町の中心部にあります。木村先生には大学の寮を宿泊先として紹介していただき、近くのWal-Martに連れて行っていただいて自転車も購入、ここで、1ヶ月のアメリカの大学生活体験をすることになりました。こちらでは、エクスターンの学生と言うことで、小児外科チームのレジデントと学生にくっついて、回診や外来、そして手術を見学させてもらいました。もっとも、私は英語がよくわからなかったので患者さんとの会話はよくわかりませんでしたが。
さて、アメリカの外科の朝は非常に早いです。 学生やレジデントは早い人は5時くらいに来て患者のデーターを調べたりカルテを書いたりしています。回診が始まる前にデーターを調べて診察をし、その日の治療方針を考えておかなければいけません。アテンディングとの回診が始まると、バイタルサインから順序立ててきれいにプレゼンテーションをしていきます。この回診とカルテを書くことに関しては、学生のうちからトレーニングされていました。また、学生達は外来での予診やカルテ書きなども行うこともできました。
その当時5年生だった私にとっては、ほとんど見学のみにとどまる自分の大学のポリクリに比べて、学生のうちから臨床のトレーニングに参加している学生たちがうらやましく思えたものです。このあたりの医学教育に関しては見習うべきことも多いかと思います。
学生は授業中も熱心で寝ている生徒はおりません。もちろん朝は早くて眠気を止めるためにカフェインを取る必要があります。こちらの学生に教えてもらって今は懐かしいマウンテンディューをよく飲んでいました。一緒に回っていた学生のTimが、これがカフェインの濃度が一番高いと教えてくれました。

そんな飲み物を飲みながらうけた木村先生の小児外科の講義では図を多用しながらイレウスの講義をします。12.jpg米国の学生達は質問熱心なのでこちらも負けじと答えてみますが、なにぶん知っている単語も少なく「これはなんだと思う?」という質問にもそのとき覚えたばかりの「Atresiaです。」と連発することしかできずに、日本から来た出来の悪い学生に木村先生の頭を悩ましたものでした。
このとき回った学生達に小児外科の印象を聞くと「小児外科はヘルニアばっかりじゃないか。」との答えでしたが、日本でもそのように思っている学生も多いかと思います。もちろんヘルニアのような手術でもしっかりと行うのはなかなか難しいものです。また、亡くなるはずだった赤ちゃんが手術によってその後何十年も寿命を全うすることを考えると、大人の外科よりも魅力的なものに写りました。木村先生はよく「自分の人生を楽しめないものは、患者さんの人生を楽しませることも出来ない。」ともおっしゃっていました。ダラスのボスのDr. Klintmalmも退院の時には常に「Enjoy your life!」といって、患者さんを送り出していました。病気を治すだけでなく患者さんの人生そのものに関与すると言う点、普通の生活・人生を送ることがどれだけ幸せかと言うことを感じさせてくれるところは、小児外科のすばらしい点です。
ここではアイオワ大学での見学だけではなくて、ミネアポリス小児病院の小児外科のDr. Chisholmのもとにも見学に行くことができました。日本から来た私にはPrivate Practiceという発想がなかったのでどんなところかと思案していたら、木村先生は「先入観無く見てくるように。」といっていました。アイオワシティーからレンタカーで丸一日走っていきましたが、こちらも、ブラジルからの女医のDr. Silverさんなど、国際色豊かでかつ、世界各国から小児外科を学ぶために来ている医師とともに見学をすることができました。大学ではないところで活動的に小児外科を行っている病院があるということはとても新鮮でありました。
木村先生がいつも語っていたことに「生きている内にあと何食食べられるか計算してごらん、それを考えると一食一食無駄にはできないよ。」ということがあります。自宅でバーベキューもごちそうしていただき、小児外科の先生達やアイオワの日本人の方々と楽しい夜を過ごさしていただきました。
やはり小児外科では“食”がとても重要なもので、その後私が小腸移植に興味を持ったのもやはり食べられない子ども達に食べるという喜びを教えてあげたいと言うことなのかもしれません。
刷り込みのように、最初に見学した科が小児外科であったことはその後の進路に大きな影響を与えました。木村先生からも「君は小児外科医に向いている。小児外科医になりなさい。」といわれ、「年を取っているから小児外科はちょっと。」と言うと、「うちのDr. Soper(当時の小児外科の名誉教授)だって、あんなに年を取っても手術をしているではないか。」と言って下さいました。
このとき木村先生からいただいた著書には、“アイオワの4週間をエンジョイしてくれて大変うれしく思います。地平線を見ていると「若者よ大志を抱け!」という気分になりましたか?”と記してくれました。
その後、アイオワ大学には6年の夏休みにも見学に行かせていただき、医学教育振興財団の派遣で英国のニューキャッスル大学に見学に行ったときには、リバプールのアルダーヘイ小児病院にも見学実習をさせていただくことができました。こちらでも、マレーシアや、ネパールのドクターとともに国際色豊かな実習をすることができましたが、日本の小児外科の事情や、神経芽腫のスクリーニングの状況がこのときはよくわからずに惜しいことをしました。

学生時代に海外での医学教育を見学できたことは、その後の進路を決める上で大きな要素になりました。11.jpgさて、卒業後大学病院で1年半の研修、その後外勤病院で2年間の研修後に、日本国内ではなかなか移植の手術のトレーニングを受けると言うことができないため渡米し、ダラスとマイアミの病院で足かけ4年間フェローとして研修をしました。
最初にダラスへ移植外科のフェローとして赴任した際には、英語もほとんどわからず簡単な薬さえも知らずに、全く日本人がいない中で孤独な日々を送りました。言葉がわからず、オフィスに戻っても英語で話さなければならないため、トイレにこもって泣く日々も続きました。唯一気が休まるのが、あまり言葉を話さなくていい手術の時でした。また、手術の毎日でほとんど眠れない日が続き、唯一眠れるときはドナーの手術に向かう飛行機の中だけでした。半年程度たって、オーダーもできるようになり、また、スタッフ達と会話もできるようになるとかなり楽しくなってきます。

フェローには手術をする権利があるので積極的に要求することも可能でした。そのような環境の中で、フェローシップを始めたときには肝臓の手術などはほとんど見たことがなかったのですが、半年ほどたつと肝移植を執刀させてもらえるようになりました。この初執刀は、フェローシッププログラム終了時には「I did it award」という形で賞状をいただきました。この賞状と、病棟を去るときに贈られた寄せ書きは今でも宝物になっています。
ダラス・マイアミともにすばらしい先生方に出会えただけではなく、医療スタッフまた、心に残る患者さんと出会えたことも幸せなことです。米国での留学体験記や、患者さん達については機会がありましたらまた別の機会にご紹介したいと思います。さて、米国での移植外科のトレーニングを終えたあとは、日本での小児外科治療の延長上の小児移植にたずさわりたいと考え、移植に至る前の小児外科疾患を学ぶために大阪府立母子保健総合医療センターでお世話になっています。
研修を積む上で、医局という枠にとらわれることなく小児外科、移植外科の研修医としてバックアップしていただいた先生方にとても感謝しています。早い段階から、海外の医学教育現場を見ることができたと言うことは、その後の進路に大きな柔軟性を与えてくれました。同じように、若い学生さん達が感受性豊かな内に広い世界を見て様々な道に進んでくれること切に望み、その中でも、将来に大きな希望を与える小児外科の分野に進んでいただけたらありがたいと思います。

上野 豪久

1993年 京都大学理学部卒業
1994年 東京大学大学院理学系研究科中退
1998年 大阪大学医学部卒業
1998年 東京大学付属病院外科系研修医
1999年 藤枝市立総合病院外科医員
2002年 ベイラー大学医療センター 移植外科フェロー
2004年 マイアミ大学 小児移植外科フェロー
2005年 大阪大学医学部付属病院小児外科医員
2006年 大阪府立母子保健総合医療センター小児外科診療主任